ヨーロッパ
ヨーロッパのファッションの歴史は、単なる衣服の変遷ではありません。それは王権や宗教、都市の発展、交易、技術革新、芸術、そして人々の価値観の変化と深く結び付いた文化史でもあります。現代社会において当たり前のように使われている「ファッション」という概念そのものも、絶えず流行が変化し、人々が新しさを追い求めるという独特の文化を形成したヨーロッパ社会の中で発達してきました。そのためヨーロッパのファッション史をたどることは、現代ファッションそのものがどのように成立したのかを理解することにもつながります。
ヨーロッパ服飾文化の源流は古代ギリシャと古代ローマにあります。古代ギリシャではキトンやヒマティオンと呼ばれる衣服が着用されていました。これらは一枚の布を身体に巻き付けたり留めたりするもので、人体の自然な美しさを引き立てることが重視されていました。理想的な身体は芸術や哲学と同様に重要な価値を持っており、衣服もまた人体との調和が求められていたのです。
一方、古代ローマではトガやチュニカが広く用いられ、服装は市民権や社会的地位を示す重要な役割を担いました。ローマ帝国の広大な交易網によってエジプト産のリネンや東方からもたらされる絹なども流通し、上流階級は希少な素材を用いて権力や富を示しました。しかし、この時代の衣服は現代的な意味でのファッションとは異なり、基本的な形式は長期間にわたって維持される傾向がありました。
5世紀に西ローマ帝国が崩壊すると、ヨーロッパ社会は封建制度とキリスト教を中心とする世界へと移行します。服装もまた宗教的価値観や身分秩序の影響を強く受けるようになりました。王侯貴族、聖職者、騎士、農民といった身分ごとに服装は大きく異なり、衣服は社会秩序を可視化するための重要な手段となります。紫や深紅などの高価な染料、絹や毛皮といった贅沢な素材は支配階級の特権であり、多くの地域では奢侈禁止令によって身分を超えた豪華な服装が制限されました。中世初期において衣服は個性を表現するためのものではなく、その人が社会のどこに位置するのかを示す記号だったのです。
しかし中世ヨーロッパは決して停滞した時代ではありませんでした。11世紀以降になると農業生産の向上や人口増加によって都市が発展し、商業活動が活発になります。さらに十字軍遠征によってヨーロッパと東方世界との交流が急速に拡大しました。ビザンツ帝国やイスラム世界からは絹織物、染色技術、刺繍技術、金糸銀糸による装飾文化などが流入し、ヨーロッパの服飾文化に大きな刺激を与えます。特に絹は圧倒的な高級素材として憧れの対象となり、後のイタリア絹織物産業の発展にもつながっていきました。東方との接触は単なる交易にとどまらず、美意識そのものを変化させる契機となったのです。
13世紀から15世紀にかけては都市経済の発展とともに服飾文化も大きく発展します。イタリアではフィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノヴァといった都市国家が繁栄し、フィレンツェは高品質な毛織物生産で、ヴェネツィアは東方貿易によって大きな富を築きました。ルッカやヴェネツィアでは高級絹織物産業も発達し、後のイタリアファッション産業の基盤が形成されていきます。一方、北ヨーロッパではフランドル地方が毛織物産業の中心地として発展しました。こうした都市の成長によって富裕な商人階級が台頭し、豪華な衣服はもはや貴族だけの特権ではなくなっていきます。
この時代の服飾文化を支えたのがギルド制度でした。織物職人、染色職人、刺繍職人、仕立て職人たちは職能ごとに組織を形成し、技術や品質の維持に努めました。徒弟制度による厳格な技術継承は、高度な職人技術を世代を超えて伝えることを可能にします。現代のイタリアにおけるクラフツマンシップや、イギリスのビスポーク文化、フランスのメティエ・ダールと呼ばれる高度な職人技術の伝統も、その源流を辿れば中世のギルド制度に行き着きます。
そして中世後期、ヨーロッパ服飾史において極めて重要な変化が起こります。それは「流行」の誕生です。それまで世界の多くの地域では衣服の基本形態が何世代にもわたって維持されていましたが、12世紀から14世紀頃のヨーロッパでは服装が比較的短い周期で変化するようになります。男性服では身体に沿った細身の上衣が登場し、女性服でも袖や襟の形状が頻繁に変化するようになりました。
重要なのは単に服装が変化したことではなく、人々が新しい様式を求め、古い様式を更新していく文化そのものが成立したことです。中国やイスラム世界にも高度な服飾文化は存在していましたが、社会全体が継続的に新しさを追い求める仕組みはヨーロッパほど強く発達しませんでした。この「変化を楽しむ文化」こそが、後のファッション文化の核心となります。
15世紀から16世紀にかけてのルネサンスは、ヨーロッパ服飾史における最初の黄金時代でした。フィレンツェのメディチ家をはじめとする富裕な商人一族は芸術だけでなく服飾文化の発展も支援し、ベルベットやサテン、ブロケードといった豪華な織物が盛んに生産されるようになります。刺繍や金糸銀糸による装飾技術も飛躍的に向上し、衣服は単なる身分表示ではなく教養や美意識を表現する手段へと変化していきました。
また神聖ローマ帝国圏でもアウクスブルクなどの商業都市が繁栄し、富裕市民層による華やかな服飾文化が発展します。ルネサンスの人文主義思想は、後のヨーロッパにおけるラグジュアリーファッションの原点ともいえる価値観を生み出したのでした。
この時代にはレース文化も発展しました。ヴェネツィアやフランドル地方では高度なレース技術が確立され、その精巧な作品はヨーロッパ貴族社会を象徴する贅沢品となります。レースはその後数世紀にわたり、ヨーロッパ服飾文化の重要な要素として君臨することになります。
16世紀になるとヨーロッパの政治的中心はスペインへ移ります。ハプスブルク家による広大な帝国の成立によってスペイン宮廷はヨーロッパ最大の権威を持つ存在となりました。この時代のスペイン服飾は黒を基調とした重厚で威厳のあるスタイルを特徴としています。当時の高品質な黒染色は極めて高価であり、黒は権力と富の象徴でした。また巨大なラフカラーや硬いシルエットを持つ衣服はヨーロッパ各国へ広がり、ファッションが国家権力を視覚的に表現する手段であることを示しました。
17世紀になるとファッションの主導権は徐々にフランスへ移行します。特にルイ14世の治世下で築かれたヴェルサイユ宮殿はヨーロッパ最大の流行発信地となりました。ルイ14世はファッションを統治手段として利用し、貴族たちを宮廷生活へ従属させます。彼らは国王の近くにいるために莫大な費用を投じて最新の衣服を購入し、流行を追い続けました。また織物産業やレース産業を国家的に保護したことで、フランスはヨーロッパ最高峰の服飾生産国としての地位を確立します。この時代に築かれた流行発信の仕組みは、後のパリ・ファッションシステムの原型となりました。
18世紀に入るとロココ文化が花開き、ヨーロッパ服飾はかつてないほど装飾的になります。女性たちは巨大なパニエによって横幅を広げたドレスを着用し、男性たちも刺繍やレースを多用した華麗な服装を競いました。フランス宮廷は絶対的な流行の中心地として君臨し、ヨーロッパ各国の貴族たちはパリの流行を追い求めます。またこの時代にはファッションプレートや初期のファッション雑誌も登場し、流行情報が国境を越えて共有されるようになりました。
さらに18世紀後半には、後に「最初のファッションデザイナー」とも呼ばれるローズ・ベルタンが登場します。彼女はフランス王妃マリー・アントワネットの御用達として活躍し、自らの美的感覚によって流行を提案する存在となりました。ここに、後のデザイナーという職業の萌芽を見ることができます。
しかし1789年、フランス革命によってヨーロッパ服飾文化は大きな転換点を迎えます。旧体制を象徴する豪華な衣服は批判の対象となり、より簡素で実用的な服装が支持されるようになりました。衣服は単なる美意識の問題ではなく、政治思想や社会的立場を表現する手段であることが明確になります。その後のナポレオン時代には、古代ギリシャやローマに着想を得たエンパイアスタイルが流行し、新しい時代の価値観が服装にも反映されました。
こうして古代文明から中世の身分社会、都市商業の発展、ルネサンス、絶対王政、啓蒙思想、そして革命へと続く長い歴史の中で、ヨーロッパは世界で初めて本格的なファッション文化を形成していきました。そして19世紀に入ると、産業革命による機械化と大量生産によって、ファッションは一部の特権階級の文化から近代的大衆文化へと変貌していくことになります。
18世紀末のフランス革命は、ヨーロッパの政治や社会だけでなく、ファッションの在り方そのものを大きく変化させました。旧体制を象徴する華美な宮廷服は次第に姿を消し、より実用的で合理的な服装が求められるようになります。しかし、この変化は単なる流行の変化ではありませんでした。19世紀に入ると産業革命によって衣服の生産体制そのものが根本から変わり、ファッションは一部の特権階級の文化から、近代社会を象徴する巨大な産業へと発展していきます。現代のファッションシステムの多くは、この時代にその原型が形成されたのでした。
19世紀のヨーロッパを理解する上で欠かせないのが産業革命です。18世紀後半にイギリスで始まった工業化は、19世紀を通じてヨーロッパ各地へ広がりました。とりわけ繊維産業はその中心的な存在であり、紡績機や力織機の導入によって生産効率は飛躍的に向上します。
それまで織物は職人による手作業が中心であり、高品質な布地は非常に高価なものでした。しかし機械化によって綿織物をはじめとする繊維製品が大量生産されるようになり、より多くの人々が衣服を購入できるようになります。マンチェスターは世界最大級の繊維工業都市へと発展し、「コットノポリス」と呼ばれるほどの存在となりました。またイングランドやスコットランドの毛織物産業も発展を続け、高品質なウール製品は世界市場で高く評価されました。
さらに19世紀半ばにはミシンが実用化され、縫製工程にも大きな変化が訪れます。従来は職人の手仕事によって行われていた作業の一部が機械化され、衣服の製造速度は飛躍的に向上しました。加えて化学工業の発展によって合成染料が開発され、それまで一部の富裕層だけが利用できた鮮やかな色彩が広く普及していきます。1856年に発見されたモーブ染料はその象徴であり、紫色はもはや王侯貴族だけの特権ではなくなりました。
こうした技術革新によって衣服は徐々に大衆化し、ファッションは社会全体が共有する文化へと変貌していきます。
19世紀は交通と情報伝達の革命の時代でもありました。ヨーロッパ各地に鉄道網が整備されると、人や物資の移動は劇的に効率化されます。それまで地域ごとに独自の発展を遂げていた服飾文化は次第に統合され、パリやロンドンで生まれた流行が短期間で各地へ広がるようになりました。
また印刷技術の発展によってファッション雑誌やファッションプレートも普及します。挿絵によって最新のドレスや帽子のデザインが紹介され、人々は遠く離れた都市の流行を知ることができるようになりました。ファッションはもはや地域限定の文化ではなく、国境を越えて共有される国際的な現象となっていったのです。
この時代に形成された情報伝達の仕組みは、後のファッション雑誌、広告産業、ファッションメディア、さらには現代のSNSへと続く長い歴史の出発点でもありました。
19世紀半ばになると、大都市では新しい消費文化が誕生します。その象徴が百貨店でした。
1852年にパリで開業したボン・マルシェは、近代百貨店の先駆けとして知られています。その後、プランタンやギャラリー・ラファイエットなども登場し、パリは消費文化の中心地となっていきました。
これらの百貨店は単なる販売施設ではありませんでした。ショーウィンドウによる演出、固定価格制、返品制度、季節ごとの商品展開、大規模な広告活動など、現代の小売業の基本的な手法の多くがここで確立されます。女性たちは商品を購入するだけでなく、百貨店を訪れ、流行を観察し、都市文化そのものを楽しむようになりました。
ファッションは貴族社会の文化から都市生活を象徴する文化へと変化し、消費そのものが社会的な楽しみとなっていったのです。
19世紀のファッション史において最も重要な人物の一人が、イギリス出身のシャルル・フレデリック・ウォルトです。
ウォルトはパリにメゾンを構え、それまでの仕立て職人とは異なる新しい役割を確立しました。従来の仕立て職人は顧客の要望に応じて服を制作する存在でしたが、ウォルトは自らデザインを提案し、流行そのものを創り出す存在となったのです。
彼はブランドラベルの使用、シーズンごとの新作発表、生きたモデルによるプレゼンテーションなど、現代ファッションの基本構造の多くを生み出しました。ここに「デザイナー」という職業が本格的に誕生し、オートクチュール制度の基礎が築かれます。
ファッションは単なる衣服製造から創造的なデザイン産業へと進化し始めていました。
19世紀後半になると、パリは名実ともに世界のファッション首都としての地位を確立します。
その背景には1855年以降たびたび開催されたパリ万国博覧会の存在がありました。世界中から集まった来場者たちはフランスの芸術、技術、建築、そしてファッションに触れ、その影響は各国へと広がっていきます。
1889年の万国博覧会ではエッフェル塔が建設され、パリは近代文化の象徴として世界的な存在感を示しました。ファッションもまたその重要な要素であり、パリで生まれた流行は世界中の富裕層や上流社会へと伝播していきました。
こうしてパリは単なる都市ではなく、「流行を生み出す場所」として特別な意味を持つようになります。
20世紀初頭になると、ファッションは芸術運動との結び付きをさらに強めます。アール・ヌーヴォーやアール・デコといった美術様式は服飾デザインにも大きな影響を与えました。
また19世紀まで女性を束縛していたコルセット文化に対する批判も高まります。フランスのポール・ポワレはコルセットを廃したデザインを提案し、女性の身体をより自由に見せる新しいシルエットを生み出しました。
続いてマドレーヌ・ヴィオネはバイアスカット技法を発展させ、布地を身体に自然に沿わせる革新的なドレスを制作します。さらにエルザ・スキャパレリは芸術家たちとの協業によってファッションとアートの境界を曖昧にし、シュルレアリスムの影響を受けた作品群で大きな注目を集めました。
この時代、ファッションは単なる衣服ではなく、芸術表現の一形態として認識されるようになっていきます。
1914年に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパ社会を大きく変えました。多くの女性が労働市場へ進出したことで、実用性を重視した服装が求められるようになります。
この変化を象徴したのがココ・シャネルでした。彼女はジャージー素材を用いたシンプルなデザインや女性用スーツを提案し、それまでの装飾的な女性服に革命をもたらします。シャネルの服は現代的な女性のライフスタイルに適応したものであり、20世紀の女性像そのものを変えたとも評価されています。
1920年代には女性参政権の拡大や社会進出の進展もあり、ファッションはより機能的で自由な方向へ進みました。短くなったスカート丈や簡潔なシルエットは、新しい時代の象徴でもあったのです。
1920年代から1930年代にかけては映画産業の発展もファッションに大きな影響を与えました。
ハリウッド映画に登場する俳優や女優たちは世界的なファッションアイコンとなり、人々はスクリーンの中のスターたちの服装を模倣するようになります。ヨーロッパのデザイナーたちも映画業界との関係を深め、新たな顧客層を獲得していきました。
ファッションは初めて本格的な国際的大衆文化として機能するようになり、デザイナー、メディア、映画産業が結び付いた近代的なファッションシステムが完成へと近づいていきます。
1939年に始まった第二次世界大戦は、ヨーロッパのファッション産業にも大きな打撃を与えました。物資不足によって布地の使用量は厳しく制限され、実用性が何よりも優先される時代となります。
しかし戦争が終わると、人々は再び豊かさや美しさを求めるようになりました。
1947年、クリスチャン・ディオールが発表した「ニュールック」は、その象徴ともいえる存在でした。豊かなスカートと細く絞られたウエストを特徴とするこのスタイルは、戦時中の質素な服装からの解放を象徴し、世界中で大きな反響を呼びます。
戦後のパリは再びファッションの中心地として復活し、クチュール黄金時代の幕が開きました。そしてヨーロッパのファッションは、新たな発展段階へと進んでいくことになります。
第二次世界大戦後の復興によって、ヨーロッパ社会はかつてない経済成長を迎えます。そして1950年代以降、ファッションはオートクチュール中心の時代からプレタポルテ、若者文化、国際ブランドの時代へと移行していきます。その変化はフランスだけでなく、イタリアやイギリス、ベルギーなど各国の個性を生み出しながら、現代ファッションの世界へとつながっていくのでした。
第二次世界大戦後、ヨーロッパは急速な経済復興を遂げました。人々の生活水準は向上し、ファッションは一部の上流階級のための文化から、より広い層が楽しむ大衆文化へと変化していきます。19世紀に成立したオートクチュール中心のファッションシステムは、戦後の社会変化とともに新たな段階へ進みました。既製服産業の発展、若者文化の台頭、メディアの拡大、そしてグローバル化によって、ヨーロッパファッションはかつてない規模で世界へ影響を与える存在となっていきます。
戦後のファッション史において最も重要な変化の一つが、イタリアの急速な台頭でした。
長らくファッションの中心地はパリでしたが、1950年代になるとイタリアが独自の存在感を示し始めます。その象徴となったのが、1951年にフィレンツェで開催されたジョヴァンニ・バッティスタ・ジョルジーニ主催のファッションショーでした。このイベントはアメリカのバイヤーやジャーナリストを招き、イタリアファッションを国際市場へ紹介する重要な契機となります。
イタリアの強みはフランスのようなオートクチュール文化だけではありませんでした。コモのシルク産業、ビエラの毛織物産業、プラートの繊維産業をはじめとする優れた生産基盤が存在し、職人技術と工業生産を高いレベルで融合させていたことが大きな特徴でした。
こうした背景から、エミリオ・プッチ、ヴァレンティノ、ミッソーニといったブランドが国際的な評価を獲得し、1970年代以降にはジョルジオ・アルマーニ、ジャンニ・ヴェルサーチェ、ジャンフランコ・フェレ、プラダなどが世界市場で大きな成功を収めていきます。
やがてファッションの中心地はフィレンツェからミラノへ移行し、ミラノはパリと並ぶ世界有数のファッション都市としての地位を確立しました。
1950年代から1960年代にかけて、ファッション産業は大きな構造変化を迎えます。
それまで高級ファッションの中心だったオートクチュールは、一部の富裕層だけを対象とする限られた市場でした。しかし戦後の経済成長によって中産階級が拡大すると、高品質で洗練された既製服への需要が高まります。
こうして発展したのがプレタポルテ(高級既製服)でした。
プレタポルテはオートクチュールほど高価ではなく、一般消費者にも購入可能な価格帯で提供されます。これによってデザイナーズファッションは一部の特権階級だけのものではなくなり、より多くの人々が最新のデザインを楽しめるようになりました。
この変化はファッション産業の規模を飛躍的に拡大させると同時に、ブランドビジネスという現代的な仕組みを発展させる重要な要因となります。
1960年代になると、ファッションの主導権は初めて若者世代へ移行します。
戦後生まれの若い世代は、それまでの価値観に縛られない新しいライフスタイルを求めました。その中心地となったのがロンドンです。
「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれるこの時代、音楽、アート、映画、ファッションが融合した新しい文化が誕生します。マリー・クワントが提案したミニスカートはその象徴であり、世界中の若者たちに大きな影響を与えました。
重要なのは、これまでファッションが王侯貴族や富裕層から生み出されていたのに対し、この時代からは若者文化そのものが流行を創り出すようになったことです。
ファッションは社会の上層から下層へ広がるものではなく、街頭から世界へ広がる文化へと変化し始めていました。
1970年代のヨーロッパは経済停滞や社会不安に直面していました。その中で登場したのがパンク文化です。
ロンドンのキングスロードにあったショップ「SEX」を拠点に活動したヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンは、既存社会への反抗をファッションによって表現しました。
破れた服、安全ピン、レザー、過激なグラフィックなどを取り入れたスタイルは、それまでの美意識を根本から覆すものでした。
パンクは単なる流行ではなく、社会や権威への異議申し立てそのものでした。そしてその精神は後のストリートファッションや前衛ファッションにも大きな影響を与え続けます。
ロンドンはこの時代以降、前衛性と創造性を象徴するファッション都市として独自の地位を確立していきました。
1980年代になると、パリは再び世界ファッションの中心として強い影響力を発揮します。
イヴ・サンローランは女性用タキシードや既製服の発展を通じて現代ファッションに大きな影響を与えました。またクリスチャン・ラクロワやティエリー・ミュグレーは華やかで劇的なシルエットを提案し、1980年代特有の力強い美意識を象徴します。
同時期にはラグジュアリーブランドの国際化も進みます。フランスの老舗ブランドは世界市場への進出を加速させ、ファッションは単なる衣服ではなくライフスタイルそのものを提案する産業へと変化していきました。
パリはオートクチュールの伝統を維持しながらも、グローバルなラグジュアリービジネスの中心地として新たな役割を担うようになります。
1980年代後半、ヨーロッパファッションに新たな潮流が生まれます。
その中心となったのがベルギーのアントワープ王立芸術アカデミー出身のデザイナーたちでした。
後に「アントワープ・シックス」と呼ばれるドリス・ヴァン・ノッテン、アン・ドゥムルメステール、ダーク・ヴァン・セーヌらは、従来のラグジュアリーファッションとは異なる知的で実験的なデザインを展開します。
彼らは日本のデザイナーである川久保玲や山本耀司からも影響を受けながら、独自の前衛性を発展させました。
さらにマルタン・マルジェラは衣服の解体と再構築を通じて、「服とは何か」という根本的な問いを投げかけます。タグを外側に付ける手法や再構築デザインなどは、その後のファッション界に大きな衝撃を与えました。
この時代のベルギーは、世界のファッションに知的実験精神をもたらした重要な存在となります。
1990年代から2000年代にかけては、スター・デザイナーの時代とも呼ばれます。
ジョン・ガリアーノ、アレキサンダー・マックイーン、ジャン=ポール・ゴルチエなどは、単なる服作りを超えた壮大なショーを展開し、ファッションを文化的イベントへと昇華させました。
彼らのショーは演劇や芸術作品にも匹敵する表現性を持ち、世界中のメディアが注目する一大イベントとなります。
同時にスーパーモデル文化も発展し、モデルたちは世界的なスターとして高い影響力を持つようになりました。ファッションは衣服だけでなく、ショー、広告、映像、音楽を含む総合的な文化産業へと発展していったのです。
1990年代以降、ファッション産業は急速に巨大資本化していきます。
LVMH、ケリング、リシュモンといったラグジュアリーグループが形成され、多くの歴史あるブランドがその傘下へ入るようになりました。
かつて家族経営だったブランドは国際企業へと変貌し、ファッションは世界規模のビジネスとなります。ブランド価値そのものが重要な経営資源となり、マーケティングやイメージ戦略がかつてないほど重視されるようになりました。
こうしてファッションは職人産業、芸術産業であると同時に、巨大なグローバルビジネスへと発展していきます。
21世紀に入ると、インターネットとSNSの普及によってファッションは新たな時代を迎えます。
かつては一部の業界関係者しか見ることのできなかったファッションショーが、今では世界中へリアルタイムで配信されるようになりました。InstagramやTikTokをはじめとするSNSは、流行の伝播速度を飛躍的に向上させます。
またストリートウェアとラグジュアリーの融合も進みました。従来は明確に分かれていた高級ファッションと若者文化の境界は次第に曖昧になり、新しい価値観が生まれていきます。
ファッションの発信源も多様化し、デザイナーだけでなくインフルエンサーやクリエイターたちも大きな影響力を持つようになりました。
近年、ヨーロッパファッションが直面している最大のテーマの一つがサステナビリティです。
大量生産・大量消費への反省から、環境負荷の低減や循環型経済への取り組みが重視されるようになりました。リサイクル素材の活用、トレーサビリティの確保、修理や再利用の促進など、多くのブランドが新たな取り組みを進めています。
またヴィンテージ市場やアーカイブ市場も拡大し、過去の衣服やデザインを再評価する動きが活発化しています。未来を見据えながらも歴史的価値を尊重する姿勢は、ヨーロッパファッションの大きな特徴の一つといえるでしょう。
現在のヨーロッパファッションは、多様な伝統と価値観の上に成り立っています。フランスはクチュールとラグジュアリーの中心地として、イタリアは卓越したクラフツマンシップと生産力によって、イギリスはテーラリングと前衛性によって、ベルギーは知的実験精神によって、それぞれ独自の存在感を示しています。
古代ギリシャやローマに始まり、中世の都市文化、ルネサンス、絶対王政、産業革命、オートクチュールの成立、若者文化の台頭、そしてデジタル時代へと続く長い歴史の中で、ヨーロッパは常に世界のファッションを牽引してきました。
その歴史は単なる衣服の歴史ではありません。産業、芸術、経済、政治、社会、そして人々の価値観の変化を映し出す文化史そのものです。そしてヨーロッパファッションは現在もなお、伝統と革新の両方を抱えながら、世界のファッションシステムの中心的存在であり続けているのです。
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